昭和50年09月02日 朝の御理解



 御理解 第18節
 「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりでない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられる。」

 生神とはここに神が生まれると言う事でという、素晴らしい言葉ですね。生神とはここに神が生まれると言う事だと。言うならば生神の誕生です。それは私し共の心の中に不安はない心配はない。そういう喜びに浸らして頂いておる、心の状態だと思うですね。信心を頂く御教えを受ける。心が段々有難うなっていく。ほんとに自分で自分の心が拝みたい様な心の状態。それは不安のない心配のない、心の状態だと。そういう心が四六時中。生神の境地というのは、そう云う様な境地。
 丸い手まりに喜びという字を書いて沢山こう書いて。それをあちらへ回してもこちらへ回しても、喜びだけしか出てこないという境地素晴らしいですね。だからそういう素晴らしい、境地を目指させて頂くのが是は御道の信心だと言う訳です。しかもね皆んながその通りのおかげが受けられると言われる所に、私しゃ金光教の救いを感じるですね。もうこの世では仕方がないんだと。お前は業が深いんだからこの業を消す訳にはいけない。消える訳にゃいけない。まああの世で楽にいかにゃというのではなくて。
 この方がおかげの受け始め。皆んなもその通りのおかげが受けられると、喜びの世界に住まわせて頂く事をこの世で教えて、この世でその喜びにどう言う様なものが、伴のうて来るかという体験を御道はおかげという。いわゆる又は和賀心ともいう和らぎ喜ぶ心。その和らぎ喜ぶ心に、おかげがあると言うわけです。所が中々どうしても難しい、みやすいんだけれども難しい。
 信心は見やすいものじゃが、氏子から難しゅうすると仰せられる様に。信心が見やすいという。もう楽しゅうして有難うしてという信心になったら、もう生神への道を歩いておるというてよいのです。信心が楽しゅうなって来る。有難うなって来る。昨日御月次祭が終わりましてから、下がらせて頂いとりましたら、久富正義さんが御相談、があるからというて部屋にやって参りました。皆さんもご承知の様なああいう実意丁寧な、信心を致しております。ほんとに素晴らしい人柄です。
 それが教会の外部の御用を承っておりますから、そういう色々御用の事の話であり、相談で御座いました。 まあほんとにだぁれも知らん、だぁれもあんたが御用しよるち知らんのだけれども、まあ言わば縁の下の力持ちだなという訳で御座います。外部の御用というのは分らん、ここでまああれやら惟やと御用しておる人は、いやあちらは中々御用が出来るという、若いけれども外でしよるなら分らん。しかも教会を中心にまあ愈々様々に、言わば心を砕いておる訳ですけれども。
 お伺いをして進めなければ解らない事があるからと、こういうのです。そしてね私はお話を聞かせて頂とる内に、成程おかげを頂く人は違うなと思うんです。もう何時も自分が、むなしゅうなるごとする事に務めておる事です。言うならばそれを犠牲とも申しますね。自分が犠牲になると言う事。同時に私ゃ昨日感心致しました事は。昨日は同んなじ同業の、建設業やってますから、同業の方が亡くなられて告別式があった。
 大川かどっかあっちの奉、それでまあこちらの同業の方達といっしょに、その告別式に出て、帰りに皆んなが、5,6人の同業の方達が、途中で精進上げして帰ろうじゃないかと、こういうんでなんか、焼肉屋かなんかに寄ってしたという。所がいうならば、夕べはいわゆる御月次祭ですから、ここでゆっくりしよると御月次祭に間に合わんと思うたから、それこそあの食事もせんなりに。
 今日はどうでも私ゃあ用があるから、これでご無礼すると、まあ言うなら顔だけはそこに出しといて帰って来て。おかげでちょうど八時前の御祈念に、八時前にこちらに着かせて頂いたとこういうのです。だから食事も今日はろくろく取らんでいたとこういう。そして御神前に額づかして頂きまして、おかげを頂いて有り難いとこうお礼を申させて頂いたら、神様が何か知らんけれどももう、こちらにそのお喜びが分る様な感動を、感じましたというておるです。
 御月次祭といやいうならば、月に四回の言わば御礼のお祭りです。この人は月次祭なんかの、時間を切った事もありません。もうこれは絶対どんな事があってもという生き方ですからね。どうでしょうかね大概の人ならばそういう、しかもお金も出してもう割り勘でしょうから。まあその焼肉屋に寄ってもう食べて来よればしかし時間は来よる。丁度こんな訳でまあ途中でああた、もうのっぴきならない人達に引っかかって、食事して来よりましたけん、遅なしましたでもいいのです。
 私しゃ正義さんの信心はここにあるなと思うたです。言い訳がたつもん。ちょっと神様んでも、言うなら私しにでも。はぁそげなこっじゃたのとそれですまされるんですけれども、神様のお喜びを頂くと言う事は、それこそそこをおして来る、生き方からしか生まれてきません。それこそ雨の降る日はおじゃるなというに、濡れておじゃれば尚可愛いというのですよ。この辺の所がね。結局普通の信心と、少し抜きん出た信心の差はもうそこです。5分10分切ったっちゃ御月次祭間に合いさいすりゃええ。
 いやもう御説教だけ聞きゃよか、と云う様なものではなくてね、それこそ月の初めの御礼の御祭りにです、もうそりゃ何でもない些細な事ですけれども、神様に喜んで頂くという信心と、ただ自分が喜べれる。自分がおかげを頂さいすればよい。頂いて喜ぶのと神様に与えて喜ぶというのは大変な違い。いわゆる私しゃ生神への道とはね、そういう道を先ずたどる事だと思うです。そりゃあお願いがありゃ日参り夜参りします。日にさんべんも参る人もあります。朝早よから参ってくる人もあります。
 それこそ修行しながら参ってくる人もありますけれども、こりば頂かんならんから一生懸命参って来るというのですから。そうじゃない言うならばよく申します。神様に喜んで頂く様な信心をさせて下さい、と口には言いながら神様に喜んで頂くという、もう一歩踏ん切りをつければ喜べれる信心になれるのにです、その辺の所をしだこだにする。心に神様を向けるその向けておる心がです、私しゃ神様から帰って来る一つの感動の様なもの。神様が喜んで下さった事を、直にこれに感じておるのです。
 おかげ頂かんなんから頑張りよるとじゃない。私ゃまあ言うならば。今日のこの18節の、生神とはここに神が生まれると云う事であってと。あれかれを言うならば、捨てておいてお参りをして来た。おかげで間に合いました。おかげを有難う御座いしたという、その神様一途に向かうその心の状態を、神様が受けて御座る。受けて御座るその感動がです、又照りかえって正義さんの心ん中に感動を呼び、喜びを感じておる。そこに生神が生まれておると云う事になるのです。
 お願いしとりましたらもう、不思議なおかげを頂きました。おかげを頂まして治らん病気が治りました。その喜びは、私しゃたいした事じゃないと思うです。勿論そういうおかげも頂かにゃなりません。頂いてまた神様喜んで下さるけれども、そう言ういうならば、皆さんがいいます、神様に喜んで頂く信心とは、ど云う事を先ず思わなければならない。願わなければいけません。やっとかっともうお参り。
 是では神様に喜んで頂く信心とはいえない。やっとかっとでけておる信心では、所謂それは大変難しい信心。信心が楽しゅうなければならない。是が生神へ向かう言うならば信心が分ったのであり、そこから段々信心を進めて行く内に、どう言う事に成って来るかと言う事です。昨日ある方のお願いをさして頂いとりましたら、あの皆さん聞いて頂きましたがこの鷲という鳥を。鷲がこうまさに飛立とうとしておる。こう羽をを広げておる。所がその止まり木に一所懸命握っておるとこういうお知らせでした。
 鷲というのは私しゃ我の事だと思ったわしがと。わしが私しがという我です。これはよく言われる事ですけれども、我を取るという事は、まあ難しい事ですけれども、生神への道に私し共が縁を頂いて、それを目指させて頂くならばです、先ずその我を取らなければいけません。我を取ると云う事は皆さんどう云う事だと思うですか。まあ色々に説かれております。仙人の修行を思い立った人が、まあ仙人の弟子入りをする事が出来た。その言うならば弟子入りの試験の様な事があった。
 それこそ崖の上にそびえる、大きな松の木に上れと言った。そして上の方へ登った所が下はもう千尋の谷。目の舞う様な高い所。そしてその師匠であります仙人が下から言うた。右足を枝から外せ左足を外せ。もうとうとうもうさがっとるだけになった。それからね右の手を離せ。離せ左の手を離せ。もうこれを外したらもう命がない。下にはもう千尋の谷なんです。そこで下からいわゆる号令が、大きな声でそれを号令を掛ける様に、言われた。途端に手を離した。
 そして下へもう真っ逆さまへおてるかと思うたら、もう次の手は次の下の枝を掴んでおったと言うのです。だからほんとにこの外すと言う事は難しい事です。金で難儀をしておる人は、いや金が無いから難儀しとるのじゃない。金があって難儀をしておる人です。沢山ありますよ。もう金があるばっかりに苦労しとる人がありますよ。だから放しゃよかばってん放しゃせん。この頃私しの御理解を聞いて、ある大変金満家のお婆さんがもうほんとに喜ばれた。ほんとに親先生の御理解何時聞いても有難いと言われた。
 唯話を聞いて有難いのだけれどもその話にはね、本当に自分が楽になる為には、外さないけんという話がしてあるのだけれども、有難いと思うけれども外しはきらん。いやそりゃね、お金の為に極楽をしておるならそれでいいのです。けれどもその人はお金の為に難儀をしてるんだから。お金があるばっかりに。そんならお金ば外さじゃこて。物を持って物のあんまり沢山あり過ぎて苦労しておる人はです、矢張りその物を外さにゃいけません。地位とか名誉為に夜も眠られん様に、苦しんでおるならばその地位を、例えばその名誉を、外さなければいけません。
 そこにはもう本当にそれこそ、捨ててこそ浮かぶ瀬もあり年の暮れであります。ですからそれを大変難しい事なのですけれども、その外した後の素晴らしさというものはです。外し損ないがない。お道のこの信心によってするならば、そして与えられたものは、愈々金のおかげで極楽するでしょう。物やら地位とか名誉とかで幸せを得るでしょう。一遍外してからのものでなからなければいけない。矢張りほんとの仙人の言わば、修行をする。ほんとに仙人にでもなりたいというなら、そのくらいの修行。
 所が御道の信心は、それを自然の中に教えて頂くのです。それを例えて申しますとままよという心と説いてあります。十二分の徳を受け様と思えば、ままよという心になれよと。ままよとは死んでもままよの事ぞと。様々な問題がある。山下奉文さんの参謀をしておられました、くりあという方。参謀で生き残ったのは此の方だけです。その方が胸の病気で椛目時代に参って、初めて椛目にお参りをして見えた時に。
 丁度カレンダに私しが頂いた教えを、31日まとめて久保山先生それを書かれて、それを活版にして5年の記念祭かなんかの時に、皆さんにお配りしました、その中に丁度こういう、日めくりが出ておった。死ぬまいと思うから疲れるという言葉であった。死ぬまいと思うからきついのです。死ぬまいと思うから。そん時に私しは、金光教にはこういう素晴らしい、御教えがありますかというて感動された。自分も様々な所謂それこそ千軍万馬っというですか。
 いわゆる実戦に参加されて、いわゆる山下奉文さんの素晴らしい人格なり度胸なりにもう、惚れ惚れとしたという話をなさいました。天津での市街戦の時に、もうそれこそ馬上豊かに。弾がピューと飛んで来るとに頭をこう、下げる事もなさらなかったそうですね。たいした方だったらしいですよ。普通の者はもう弾が来たらもう、あの兵隊行ってから、そういうとこ通ってきましたが、そりゃもうこうやってから、陰があるならちょいと草むらの影にでも、入ろうごとある。
 それにね馬に乗ったまま、こお頭も下げられなかった程しの、度胸であったという事です。そういう所を通っておられるからです。死ぬまいと思う心が、びくびくせんならんのだと言う事が教えによって分られたんです。死ぬまいと思う心が疲れる。奥さんも胸の病気でもう難しかろごたる。自分も絶対安静を言い渡されておられる。死ぬまいと思うからも飲む。死ぬまいと思うからお神様にお縋りしようかと、思うて参って来た所にです死ぬまいと思うから疲れる。はぁ本当にもうままよという心を出された。
 それからもうほんとにとんとん拍子におかげを頂かれました。熱心に参って来られました。久留米の何代目かの、自衛隊の隊長になられました方ですね。まあだ胸が悪かったまま試験が通ったんです。ほんとにそこにねままよという心と言う事が、私は我を取った姿だと思うです。だから御道の信心でいうと、そげなもう松の枝こう握っとっとばしょうねたり、手をはねたりと言う様に難しい事じゃないでしょうが。ままよという心それはどう言う事かと言うと、皆さんが様々なお願いをなさる。
 どうしたもんだろかとこう思い悩んでおる。そん時に親先生が右がよかばい左がよかばいと教えて下さる。ほんとに親先生が右といわれるから右と、腹を決めた時がままよの心です。だから皆さんもそういう言うならば稽古を、常日頃なさっておられる訳です。ですからそう言う様な、稽古をしながらで、ままよという心がどんなおかげを呼ぶか、どんなおかげが頂けるかという体験を皆さんは、積んで行っておられます。ですからそれが四六時中、それであればよいのです。
 愈々ん時には神様まかせ、親先生任せにならせて頂くという、その心を愈々私しは作って行く事だと思います。親先生はあげんいいなさるけどどうじゃろかと、不安がある時にはまだままよという心がでけとらん時です。もうこのねままよという心ぐらい、素晴らしい安心の心は無いです。死ぬまいと思うからこれがああなりたい、こうして貰たいと思うから、不安な自分でたまらんのですけえども。
 それをままよという心を出させて貰うて。もう右左はあなたに任せた。その時にねその人はもう救われておるのです。必ず次の枝に掴まえておるです。次の枝に足はちょっともう踏んまえておるです。そういう微妙なものなんです。生神とはここに、神がうまれると言う事である。今日はここん所をいうなら角度をかえての、生神への言わば精進をさして頂くには、先ずは我を取らならない。いや先ずは神様に喜んで頂く信心を身に付けたいと念願しなければならない。
 もう今日はそげな事情があんなら、わざわざそれこそ友達と一緒に折角肉屋に寄っとっとじゃから、それこそ焼肉でご飯どん頂いて、一杯頂いて。まあ三十分一時間遅れようけれども、それで参って来りゃいいじゃないかと。けれどもねそこをですね、神様はそう言うて下さるけれども、先生にはそれで言い訳は出来るけれどもです。そこを私しは一つ押して、神様のほうへ向こうて来るという心。
 もう今日んごたる雨の降る日にきなさらんでんと、例えばいうてもです、濡れてでも来るなら矢張り尚可愛い心が募って来る様に、私しゃ神様に喜んで頂く信心とでない信心は、もうそこのほんの紙一重だと思うんです。もうやっとかっとお参りしよる。お願いばせんならんから参りよる。是ではいけんです。信心が矢張り楽しゅうなる。信心がありがとう成る。そして是は自分の信心の節度と言う様なものがです、それが行じ抜かれると言う所にです、思い掛けない言うならば神様に喜んで頂こうと思うて。
 昨日なら正義さんは、それこそ時間を切らん様に、もう肉も食べずにご飯も実際食べにいっとるんだけれども、お神酒も頂かずに、訳をいうてむこうて来ておる。所が期せずしてです、神様はねそれこそ濡れておじゃれば尚可愛いというのが、正義さんの心の上に、感動になって現れておる。神様ちゃこん位な事を、こんなに迄も喜んで下さるとばいなと云う事が、体験出来るのです。先ずは神様に喜んで頂くという信心を、先ずは願わなければいけません。次には愈々ね。
 いわゆる我をとらなければいけません。いわゆる我情我欲であります。その我情我欲を外れる所にです、我が身は神徳の中に生かされてあるというおかげが頂かれます。成程外した。もう普通でいうなら外してしもとるのだから、千尋の谷真っ逆さまと思うたら、そうではない。次のいうならば命の枝に掴まっておる。そして言うならば仙人になる一つの決め手というのは、ここだと言う様にまぁ悟ったであろう様にです。信心のいうならば決め手はそこです。我情が無い我欲が無い。
 どれだけの金を持っておってもです良いのです。それがほんとに神様が必要となさり、神様がそれを喜んで下さる事ならば何時でも裸になれれる、状態というものが必要なんです。そういう心を作って行く所に次にはです、いわゆる浮かぶ瀬もあると言う様にです、成程御神徳の中にあるんだなという御神徳の中に生かされてあると言う事実が分る。その御神徳が頂ける。皆さんが迷い悩み苦しんでおる時には必ず。
 我情我欲の為に苦しんでおるのです。問題がこじれて来る時には、かならず自分の我情我欲があるからもつれて来るのです。その我情を捨て我欲を捨てたら、問題は問題でないのです。いわゆるままよという心。教祖はそう言う風にみやすう説いておられます。十二分のおかげを頂十二分の徳を受けようと思えば、ままよという心になれよ。ままよとは死んでもままよの事ぞと。
 死んでもままよと、そこんにきがちょっと難しかごたるけれどもです、皆さんは日々そういう意味においての小刻み的な修行をなさっておられる訳です。それをここでは親先生任せとこういう。それを段々段々本格的なものに本当の物にして行く稽古をしてかなきゃならんのだけれども、ちいっとばっかり金が溜って来たりすると、もう私しが働いて私しが溜めたと思うちから、もう放しきらん。
 まぁ財布の中に千円か二千円かでもうこりしこしか無かちゆうごたる時には、もう財布のはたたいてからでも、外す事は出来るけども、これが十万円になり百万円になって来ると中々はなせん。本当にですからそれをね、外して行くと言う事のね。その妙味というものを、ひとつほんとに悟らにゃいけんです。やっぱ悟りですなら例えば私し、まあこの頃ここの今度あすこに又御普請が増築があります。たったあの布団部屋がいっちょでけるとに850万かかる。
 二階にこう作るはぁ沢山、布団のお供えが来たから、置きどこがない。その大工さんが来てからいいよりましたが、今ここを見積もるなら、矢張り2億円じゃでけないでしょうとこう。例えそれが2億円であろが、3億円であろが神様が今必要だとされるならもう、何時でもいわゆる奉って。そこに私は何時も楽です。いうならばそれだけ豊かな心でおれれるから、豊かな物やら金の世界も、住む事が出来るんです。
 そのあるとなかっちゃかーっとばっかりこ、ならおしなかばってん。結局握っておるその鷲じゃないけども、上に飛び立とうと思うておるのにも拘らず、止まり木をしがみついとるですから、惟でおかげが頂ける筈はない。飛び上がられる筈はない。おかげの頂ける筈はない。是を外さなければ。そこに天空高くいうならば飛び上がる事もでけるのです。 そういう私しは修行が、生き神への修行だと思います。
 私しだん生神様にならんでよか、おかげだけ頂きゃよかという人は、だからそれでいい訳です、我情我欲一杯でもおかげは頂かれるのです。悪人でもお取次ぎを頂けばちゃんとおかげは頂くです。けれども矢張り生神への道を辿らして貰う。少しでも自分の心ん中にです、有難い勿体ないの世界に住みたいと思うならばです。おかげを頂いて有難い勿体無いじゃない、与えて有難い勿体無い。
 与えてと云う事は神様に喜んで頂く信心をいうのです。私しゃ昨日のその正義さんの話聞かせて頂いて、神様に喜んで頂くという信心はもう本当に、その気になれば難しい事はないなあ。ちょいと肉屋によってから、皆んなが食べよるとを、はぁ折角金出しとるけんビール1本なっと飲んでこにゃご飯一杯なっとん食べとかな。肉もちっとばかし食べとかにゃばからしかと、言うとを外すだけの事なんですから。
 それで神様がそれこそ感動なさる程しの、神様喜んで下さる事ならばです。それを外して来る事ですから難しい事じゃないです。その神様の喜びを受けて行く事によりますとね、不思議です。もうその喜びを頂いていきよります。その喜びが勇気になります。元気な心になります。喜びの時にはそれこそ暑くても暑さを感じません。寒くても寒さを感じません。いや危険な所にあってもを全然感じません。だから生神への道がいわゆる、見やすい事になって来るのです。  
 問題は有難くならにゃきゃいけません。為には自分が頂いて有難いのではない。信心を頂いての有難さでなからにゃいけません。その神様に喜んで頂くという信心をです。私しは正義さんの、ちょっとした心意気。これがあのその時だけではなくて何時もが、そういう心掛けの人なんです。だから矢張りおかげを受けるんです。人の信用が付くです。神様のご信用も付きましょう。唯神様からはもう、それこそ頂く物の様な、思い方からね。神様に喜んで頂くという信心を、今日は聞いて頂いた。
 喜んで頂く信心とはもうほんとにでない信心とである信心は、もう紙一重だと言う事そこからあたくしゃ、我情我欲をはなすと言う事を、難しいように聞いて頂いたけれども、じつを言うたら喜びいっぱいの時には、それを放す事が平気である有難く放せれると云う事。ほんとに有難い時にはね、普通で出来ない事が平気で有難くでけるんです。そういう心を頂く事を目指して、おかげ頂いていかにゃいけません。
 この方がおかげの受け始め。金光大神はそういうとられるが、ここでは言うならば私がおかげの言うなら合楽では、私しがおかげの受け初めなのですから、結局私の信心を見習うて頂く以外にないです。現物のそこに手本が見本があるからね。それを真似して行けばよいです。こげな時なら親先生ならどの道を取られるだろかと、思うたらそれでいいです。それが自分で自分が。
 この道よりかあの道を行こうというその我があるから、苦しいのです。日常生活の上にもこういう時親先生ならどの道を辿られるだろ。こういう時親先生はどれを取られるだろうかと言う、云うなら目の前に手本があるから楽です。そういう生き方を愈々身に付けて、愈々生神への道をね、もうそれこそまっしぐらに、進ませて頂かなければいけません。それが金光教の信心なんです。総氏子総信者がです生神へなっていく道を、教祖は説いておられます。
   どうぞ。